七話
「ぞばぬん!」
黒髪の男が錐揉み状に回転しながら吹き飛び、訓練所の壁に叩き付けられた。
男は壁からズルズルと落ちていき、硬い地面に崩れた。
「……起きてるッスか?」
保護者のような女の声も虚しく、つくねられたベッドのシーツのようになった彼は僅かに痙攣するだけだ。
壁に叩き付けた張本人の少女は呆気に取られた顔でその様子を見ていた。
……つまり、そういうことだ。
「アルドロ弱過ぎだろ……」
そう、ファル対アルドロの模擬戦は、開始数秒にして、ファルの圧勝に終わったのだった。
「アルドロ、スッゴい弱いね」
「さっきの無し! もう一回だ!」
「アホかお前は。実戦にもう一回なんてない」
「そ、そこをなんとか!」
「いつも以上に哀れッスね……」
アルドロが一瞬でやられた数分後、アルドロはみっともなく駄々をこねていた。
「いや、でもさっきのはあっさり過ぎて消化不良というか」
「それは、お前が調子に乗ったせいだろう」
そう、あろうことかこのバカは、「フッ、俺は大人だからな。先攻はくれてやらあ」等と言い出し、無防備に立ち尽く始めたのだ。
その結果が先程の結末だ。
「う、うるせえ!」
「はいはい、アルドロ君。落ち着くッスよー。タバコ吸うッスか?」
「アルドロ弱いねー」
いっそ微笑ましいほどだ。
膨れっ面で駄々をこねる姿は、まるでガキだ。
「弱くねぇし! タバコ吸わねぇし! 前の健康診断でも『肺、綺麗ですね。美味しそう。ペロペロしたい』とか言われるくらい健康だし!」
「タバコくらい吸えないと、大人じゃないらしいぞ」
「あ? 吸えるわ。メッチャクチャ吸えっからな? お前ら見てろよ! 俺の勇姿をな!」
そういうとアルドロは、ロッテの吸いかけのタバコを奪い取り、一息で吸いきった。
「うげっふ! ゲホッ! ガハッ!」
勇姿、ではなく蛮勇だったようで、アルドロは嵐のように激しく咳き込み始めた。
「あーん。関節キス奪われちゃったッスー」
「お前はそんなこと気にしないだろ」
「いやー、気にするッスね。何分、乙女なもので」
「ゲホッ! それはない。ゲフッ!」
いつの間にかアルドロの顔は、真っ青になり、ゾンビのようにフラフラとしていた。
「もう! ジョニーもロッテさんもアルドロいじめちゃダメだよ!」
「ファル……!」
余りにアルドロが哀れだったのか、ファルがアルドロのために立ち上がった。
アルドロは唯一の味方に感極まった様子で名前を呟いた。
「アルドロは弱いんだから、もっとキチンと扱わなきゃダメ!」
「ガハッ!」
唯一の味方は、笑顔で近付くただの暗殺者だった。
懐から急所にナイフを突き立てられたアルドロは断末魔と共に崩れ落ちる。
子供ながらの残酷なほどの純粋さだ。恐ろしいものだ。
「弱くねえし、弱くねえし……」
うつ伏せのまま、呻いているアルドロを見ていると、流石に可哀想になってきた。
「んで、再戦なんだがファル。大丈夫か?」
とりあえず、これを言っとけば喜ぶだろう。
ファルもいい感じに手加減ができているようだからな。
「んー、別にいいよ」
「あ、いいんスか」
「ふっふっふ……。後悔するなよ。その言葉……」
再戦が可能と知り、腐ったナメクジのようになっていたアルドロは幽鬼のように立ち上がった。
「さぁ、今すぐ俺と勝負しゲホッ」
ファルの一撃とロッテのタバコのせいで顔色は海のように青く、足も産まれたての鹿のように震えている。
「今日は止めといた方がいいんじゃないか?」
「は、このくらいどうってこブチャ!」
おっと、手が滑って偶々いた黒髪の少年に当たってしまった。
「おーい、衛生兵、怪我人が出たぞ-」
「うわっ、容赦ないっスね」
「あ-あ……」
言っても聞かないことは分かっていたので、少しおやすみしてもらう。
「アルドロ可哀想……」
心なしかファルの目線が冷たい。
しばらくすると訓練所に駐屯していた衛生部の男が駆け寄ってきた。
「また、こいつか……ああ、ロッテさん、お疲れ様です」
「うす、お疲れ様っス。毎度毎度すまないっスね」
「いや、まあ、はい。仕事ですし」
どうやら男とロッテは知り合いらしく、慣れた挨拶を行っている。
あのアホ加減だ。衛生部に度々世話になるのは容易く想像がつく。
やれやれ、と言いつつ男は『治癒』の魔術をアルドロに使った。
白い魔力光がアルドロに当たると、青い顔は生気を取り戻した。
苦痛に歪んだ表情も和らいだように見える。
「後は適当に休ませてください。それじゃ」
「助かる」
「いつもすまないっスね」
「ありがとうございます!」
男はこちらの顔を見回した後、去った。
「こいつは何回知らないやつに喧嘩売ってるんだ?」
「ノリがいい人多いんで、暇な時は大体喧嘩してるっス。今じゃちょっとした名物っスね」
ロッテが後ろに首を振ると、何人か見ていたようで目が合う。
「いつからやってるの?」
「最近っス。一、二週間ほど前っスかね」
「へぇ、すごいね」
「そっスね、すごいスよ」
「お前があんなバカを甲斐甲斐しく世話するとは、どういう心境の変化だ」
「大した理由じゃあないっスよ」
「惚れたのか?」
「それはないっスね」
まぁ、当たり前か。あれに惚れるとか頭が沸いているとしか思えない。
「少し昔を思い出したんスよ」
「昔、ね」
思い当たることはある。数年前にロッテの兄は死んだのだ。
よくある話だが、死因は魔族の襲撃だ。今もその魔族は生きているらしい。
それ以来、ロッテは変わってしまった。
「ただ、それだけっスよ。……ファルちゃん。アルドロに付き合ってくれてありがとっスね」
「どういたしまして!」
アルドロがロッテにいい影響を及ぼしているならば、それもいいだろう。
こんな馬鹿でも俺の友人が、立ち直る理由になるというなら儲け物だ。
「これを機にそろそろやる気を出してくれよ?」
「……さぁ、どうッスかね」
俺の考えてることが、わかったのかロッテは少し拗ねた顔をしていた。
「どうして弱いのに戦おうとするのかな」
ファルがそんなことを呟いたのは、
「突然どうした?」
「アルドロだよ。……なんでかな」
……アルドロのことか。
ファルは両手を頭の上に置き、人生最大の問題を考えるがごとく、
「さぁな、それはアルドロだけがわかるんじゃないか?」
それに対して、俺は具体的な答えを出すことはできなかった。
そういえばアルドロが何故強さを求めて模擬戦闘をしているのかを
「そうだよねぇ」
俺の無難とも言える回答に、ファルは一応の納得を得たが、
ファルは俺に聞いても答えが見つからないことを悟ると、
……会話が止まってしまった。
一応、俺はファルを育てる、
彼女は今、悩んでいる。
こういう些細な悩みに一つの例として答えを出すことも必要、
そうと決まれば、
「これはあくまで俺の予想の範囲なんだが、
「なんで?」
「アルドロにとって大切なのは、戦いの強さではなく、
実際、アルドロがそのタイプの人間かは知らない。
もしかしたら、アルドロは、「せかいさいきょう」
……正直、そっちの線の方が合っている。
「それにアルドロ自身、弱いってのは自覚はしている。
「理由って?」
「さぁな、それこそ聞いてみないとわからんさ」
「私にはイマイチわかんないや」
ファルは合点行かないようで、未だに首を捻っている。
何かを語って相手に納得してもらうっのは、
どこまで言葉で語っても、己の身で味わうことをしなければ、
俺自身がそういう芯の強さを本当の意味で知らないせいかもしれな
「いずれわかるようになるさ」
「そういうものなの?」
「世の中のモノは大抵そういうものだ。
「そうなんだ」
結局、教えることは上手くできていない。
だが、その内俺も上手く語れるようになるのだろうか。
「多分な」
「けっこー適当だね」
ファルはクスクスと笑い、先へ先へと走り出した。
「早く戻ろ!」
上手く語れるかどうかは別として、
だが、一応俺も大人だ。もう少し諭す能力が欲しい。
ファルの代わりに今度は俺が頭を捻り出した。
「いたっ」
前を見ずに曲がり角にさしかかったファルは、
その何かは闇のように黒いローブをはためかせ、
「あ、ごめんなさい……」
「……」
ファルはすぐさま、
だが、ワイアットはそれを気にした様子もなく、
カメラのレンズのように機械的ながら人の意志を感じさせるワイア
「すまん、次からは注意させる」
見かねた俺は、視線を遮るようにファルの前に立ち、
俺はすぐにファルの手をとり、
「ジョニー・ベルペッパー」
だが、
「なんだ?」
「あまり人の心を知った気にならないことだ」
「……ほとんど初対面でよくそんな非道いことが言えるな」
呼び止めたと思えば、他人の心を抉るような毒を吐いてきた。
「私は存じている」
「なに?」
こいつは一体何をしたいのか、皆目見当もつかない。
「己が道具であることを忘却せぬことだ」
「……お前が、俺の何を知っているというんだ」
思わず、声が震えた。
その震えは、軽んじられたための怒りなのか、
どちらにせよ、動揺してしまったことは確かだ。
「違う! ジョニーは道具なんかじゃないよ!」
ワイアットの侮辱の言葉にファルが噛み付いた。
「ジョニーは、あ、アルドロとかロッテさんとか……
大気が震える。ファルの感情の揺れに魔力が反応したのだ。
ファルは感情のまま、ワイアットに飛びかかろうとしたが、
ファルは烈火のごとく怒りを表したが、
「……」
ワイアット。今まで生きた中では、聞いたことのない名前だ。
まるで俺の過去を知るように語り、揺さぶりをかけてきた男。
だが、あの施設の研究員は試作機により、皆殺しにされたはずだ。
いつの間にか口の中に溜まっていた唾液を飲み込む。
「……」
唾液はどす黒く粘着いた何かのように喉元を通り抜け、
思考には黒いモヤがかかり、意味を為す言葉が浮かばなくなった。
「ジョニー」
ファルの呼びかけでハッとする。
「大丈夫?」
「ああ、問題ない」
脳を経由せずに反射的に返事をした。
さっきまでのように下らない悩みに悩む思考は消え去っていた。
「部屋に戻ろ?」
「……ああ」
あの日の、あの場所の記憶は終わったことだ。
思考せず、誰かの手足であっただけの日々はもうないのだ。
──そう、終わったことなのだ。