――極寒の地、アラスカ。気候変動の影響により永久凍土と化し、分厚い氷の膜に地表を覆われたその地下に、ハオウの地上における侵略拠点は存在している。
地上よりも温かく、比較的過ごしやすい地下空間は、彼と彼の腹心である幹部級の魔族たちの住処でもあった。言うなれば、魔王城のようなものだろうか。
普段ならばハオウの庇護下にあり、この地上に生きるほぼ全ての魔族にとっては安住の地であるはずのそこは、いまや地獄絵図と化していた。
滴る血。飛び散り、壁や床、天井などにべったりとこびりついた肉片。
それらが意味するものは、ただ一つ。
この城の主にして、三千世界を統べる大魔王――ハオウが、己の部下を虐殺していることに他ならない。何せ、ここに集められた魔族はその全てがほぼ同等の戦闘力を持ち、なおかつその辺の上級魔族よりも余程強い人材が集められているのだ。このような一方的な虐殺など起こりようもないし、そもそも縦社会の概念が強い魔族間では、人間のように同属で争いあうことも少ない。
だとすれば、考えられる可能性は一つ――この地上にいるすべての魔族の中でも別格中の別格であるハオウが、何らかの行動を起こした以外にはありえない、というわけだ。
「おい! 貴様!」
「……っ! はっ!」
凶行の一部始終を震えながら見つめていた魔族の一人に、ハオウは荒々しく声をかける。当の魔族は、一瞬の硬直の後、自分に矛先を向けられてはたまらないと言わんばかりに、直立不動の姿勢で返事を返した。
ハオウは荒い息を繰り返しながら、その魔族に命令を飛ばす。
「今すぐにべリアルを呼んでこい! 今すぐにだ!」
「……は、はっ!」
ハオウの命令が無茶なものでは無いと知り、ホッと胸を撫で下ろす魔族。その一瞬の安堵が、彼の命の灯火をかき消してしまったことに、彼自身はいまだ気付いていなかった。
そう。気付いたときには、遅すぎたのだ。
彼が踵を返し、この城に招集された魔族の中でも高位に当たる、悪魔公爵べリアルの部屋へと足を向けた、その瞬間。なぜか目の前に、憤怒の形相をしたハオウの顔が広がっていたのだ。
「え?」
「……このハオウの命を受けておきながら、」
なぜかその声がぶれ、自身の視界が高速回転を始めた段になって、彼はようやく気付いた。
「なぜすぐさま行動に移さない!」
自身の首と胴は、既に繋がっていないのだという事を。
ハオウが件の魔族の首を飛ばした直後、騒ぎを聞きつけた六幹部の一人――悪魔公爵ベリアルが、その場に姿を現した。
――ベリアルは、ハオウの腹心の部下だった。悪魔公爵という通称からも分かる通り、彼はソロモン七十二柱の一柱である、大悪魔なのだ。その実力を買われハオウと行動を共にし始めてから、既に早百二十年が経過していた。その百二十年間の中で、ハオウは度々このような癇癪を起こし、そのたびにベリアルはそれを諌めてきたのだ。
だからこそ今回も、この癇癪を起こした主を静めるのは自分なのだろうと考えながら、騒ぎの中心部へと駆けつけた――のだが、彼はそこが一体どんな惨状になっているのか、そして自分の身に何が起こっているのかを、終ぞ知る事はできなかった。脳が何かを認識するよりも先に、身体を真一文字にハオウが引き裂いてしまったからだ。
ハオウは焦っていた。つい先程、ハオウが主と崇める存在から、この城へと通信が入ったのだ。曰く――『これ以上失態を晒すのなら、その進退に関わることになる』と。
思い当たる節はいくつかあった。
機密研究所の閉鎖、地上でも数少ない中立国である日本を混乱に陥れるために計画した、爆破テロの失敗。そして何より、主から最優先事項だと通達されていた、デトロイトの研究基地の陥落。たったこれだけのミスとはいえ、しかしその落ち度は、ハオウの立場からすれば主からそう言われるのに余りあるものだ。
主から地上の攻略を任され、千を越える時をその右腕として生きてきたハオウにとって、この宣告はにわかに信じられるものではなかった。しかし、自身が主の一番の部下である事を理解しているからこそ、ハオウは主の言葉が本気だという事を、嫌が応にも理解できてしまう。
だからこその焦りであり、だからこその苛立ちなのだ。
「なぜだ……なぜ……」
ハオウは己の右手にこびりついた血肉を腕を振ることで払うと、その拳を壁に打ちつける。
自身の駒であったベリアルを殺しても、この苛立ちは一向に治まる気配を見せない。
そう。ベリアルが、ハオウの前に姿を現した瞬間。その瞬間に、ハオウは獣のような形に変化させた己の掌で、ベリアルの頭から股下にかけてを、一瞬で削りとり、引き裂いたのだ。
当然、その脳漿は原形をとどめることは出来ず、眼球も瞬時に潰れてしまったために、一体何が起こったのか分からないまま、ベリアルはその生を終えた。
ハオウがベリアルを殺した理由は、『呼び出しに応じるのが遅かったから』。ただそれだけ。
そもそも、自身が伝令役である魔族を殺してしまったのだから、呼び出しも何もあったものではない。しかしそんな事はハオウには関係ないことだった。ただ己を苛立たせたから、殺しただけだ。
その理不尽さが、今のハオウがどれだけ苛立っているのかを証明するいい証拠だといえるだろう。
そんなハオウの姿を、壁に寄りかかって見つめいていた一つの影が、ゆっくりと口を開く。
「……無様だな」
「…………何?」
ハオウの視線が、殺意を緩める事無く影――線の細い、小柄な男だ――へと向けられる。しかし男はその視線に一切動じる事も無く、呆れるように肩を竦めながら壁に預けていた背を離した。
「無様だな、と言ったんだ。どうした、長く生きすぎたせいで耳が使い物にならなくなったのか?」
「キ、サマァ……」
「おっと、気を悪くしたか? ……あぁそうか、長く生きすぎたせいでダメになったのは、耳だけじゃなくて、主の役に立つための術を忘れてしまったお前の頭もだったな! これは失敬した! ……く、くく、くはははははははっ!」
腹を抱えて笑う男。この地上に存在するほぼ全ての生物は、この時点で首と胴が分かれているところだが、しかしこの男は、その数少ない例外だった。
男の名はナゼ。ハオウと同じく、主のために尽くす僕であり、齢三十にも満たない人間ながらも、ハオウと同じ『四天王』の地位まで上り詰めた男だ。
「このハオウを侮辱した罪……死をもって購う覚悟は、既に済んでいると見ていいのかっ!」
ハオウはいまだ腹を抱えて笑い続けるナゼに向かって、全力で殺気を放出した。
さすがにハオウの本気の度合いが伺えたのか、笑うのをやめたナゼが、同じく殺気の篭った視線をハオウに向ける。
「……同じ言葉を返してやろう。四天王〝最弱〟の分際が、四天王〝最強〟である自分には向かうという事は――死ぬ覚悟が、出来ているのだろうな?」
ハオウのそれとは、比べ物にもならない、ナゼの殺気。
組み合えば一瞬でハオウはその命が奪い取られてしまう事が明らかに、誰の目から見ても明確であるほどに、その差は大きなものだった。
しかしハオウは、その実力の差に一切臆する事無く、言葉を続ける。
「粋がるなよ、若造が! 両の手足に架せられた枷を外せば、貴様如き一瞬で――」
「――ならば、外してみるといい」
ハオウの言葉を遮って、ナゼがハオウの両手両足に取り付けられている枷――彼らの主の力によって作られた、強力なリミッターだ――に目を向けた。
「なるほど確かに、その枷を外せば――一瞬だけとはいえ自分の力量を超える事は出来るだろうな。……だがその枷を意図的に外した瞬間、我らが主の敵に回るという事を理解しているか?」
「ぐっ……」
ハオウは言葉を詰まらせる。
確かに、両手両足のリミッターを外せば、ハオウは全盛期の力――リミッター一つにつき二十パーセントほど力が押さえられているため、単純計算で、今の五倍近い実力を発揮する事が出来る計算だ――を取り戻す事が出来るだろう。
しかし、この枷は、ハオウが主と崇める人物から直接取り付けられたものなのだ、これを自らの意思で外したときとは、即ちハオウが己の真の力を取り戻すときであり、同時に自身の主を敵に回すという事に他ならない。
「……大方、頭に血が上ったせいで咄嗟に口から出た言葉なのだろうが……安易な物言いは己の首を絞める結果になると、その使い物にならなくなり始めている脳によく刻んでおくことだ」
「おのれ……」
ハオウが何も言い返せずに歯噛みをしている姿をしばらく眺めた後、ナゼは気が済んだのか、ハオウにその黒い背を向けた。魔族の血や臓物を踏まないようにするためか、己の影――正確には、その影の中に潜む影蟲という怪物だ――に床を掃除させながら、ナゼは出口へと歩いていく。
「主には出来るだけ支援するようにと言われていたが……やはり自分は、貴様のような短絡的な思考を持った男とはそりが合わない。……無償で支援してやるのは、次が最後だ。それ以上の支援が欲しければ、何か対価を用意することだな」
最後にそう言い残して、ナゼはその姿を扉の向こうへと消した。それを見送ってから、ハオウは再び壁に拳を叩きつける。
「おのれ、若造がぁ……っ」
ハオウは己の所業がもたらした惨状を見つめた。ある程度力を持っていた魔族をあらかた殺し尽くしてしまった今、この城に残っている戦力は非常に少ない。
「こんな事になったのも、あの人間共の集団が、このハオウの計画を次々に頓挫させるせいだ! ……ふざけるなっ!」
誰もいなくなった大広間で、ハオウは一人叫んだ。手から魔力を放出し、壁を吹き飛ばす。
その際に巻き起こった衝撃波により、数枚の人皮紙がはらりと床に落ちた。床に溜まった魔族たちの血を吸って赤く染まっていくそれを、ハオウは憎々しげに持ち上げる。
その人皮紙に書かれているのは、ここ最近、まるで狙い済ましたかのようにハオウの計画を頓挫させ、ハオウの主からの評価が下げられる一端もなっているある組織について、部下に調べさせた結果がまとめられているものだった。
「そういえば、結局詳細を読んでいなかったな」
そこに書かれた報告書にまだ目を通していなかったことに気付いたハオウは、真っ赤に染まったそれをゆっくりと捲っていく。
そこに書かれた内容を読み込んでいくうちに、ハオウの口角がゆっくりと釣り上がっていき、最終的には、まるで頬が裂けてしまったかのような、獣的で獰猛な笑みを浮かべた。
「クク、ククク……下等な人間だとばかり思っていたが、この雑魚共は、中々に使えるな……」
地と臓物が巻き起こす鉄の臭いが篭る部屋の中で、ハオウは一人、笑い続けた。