旧ナイツロード 第二話 戦闘

 

 

 一瞬の出来事だった。

 少し目を放した隙に、エレクの身体が宙を舞っていて、

『機人兵』の赤い目がボクを射抜くように光っていた。

 油断した――そう思ったときには、既に『機人兵』は

その丸太のような右腕をボクに向かって振り下ろしていた。

 それを理解した瞬間、まるで周囲の時が止まったかのように、

あらゆるものの動きが停止し、それとは逆に今までの思い出が

すさまじい速度で頭の中を流れていく。

 これが走馬灯というものなのかな、

なんてのんきなことを考えている間に、

どうやら止まっていた時は動き出していたみたいで、

目の前には『機人兵』の巨大な拳が迫ってきている。

 きっとこれを食らったボクの体は、バラバラになって吹き飛ぶか、

ぼろ雑巾のようにズタボロにされるか、潰れたトマトみたいに

グシャグシャになって、地面に赤い血の花を咲かせるのかもしれない。

 そこまで考えた所で、ボクの中で急速にある感情が

膨れ上がってきた。

   

 怖い。

   

 その感情を自覚した途端、

ボクの両目からはとめどなく涙があふれてきた。

 それはボクの体をガタガタと震えさせ、ここから逃げる力を、

動くための力を奪っていく。

 もう視界は『機人兵』の拳でいっぱいだ。

 他の何も見えやしない。

 でもそれも、涙のせいで歪んで見える。

 こんなのが人生で最後に見たものだなんて、最悪にもほどがある。

 そして、ボクの体にすさまじい衝撃が訪れ、視界がぶれる。

 ボクはそのまま地面に叩きつけられて、のたうちまわる。

   

 ……あれ? 生きてる?

   

   

 グーロは目的の部屋までたどり着くと、

今までより少しだけ優しく、部屋の扉を引きちぎった。

 そして、部屋の中に誰かがいるのに気付く。

 相手も既にこちらに気付いているようだ。

 警戒するように、深く身を落とした構えをとっている。

 その人物を睨み付けながら、グーロもひざを軽く曲げ、

いつでも飛び出せるようにして構える。

 そのまましばらく睨み合いが続いたが、

突然、部屋の中にいる人物が声を上げた。

「……お前、エレク・ペアルトスではないな?」

 声から判断するとどうやら男のようだが、

部屋の中が暗いため、ぼんやりとしたシルエットしか見えず、

実際のところどうなのかは分からない。

 先ほどまでお互い戦闘体制に入っていたというのに、

いきなり声を掛けられたことに多少驚きながらも、

グーロは言葉を返す。

「……ああ」

「……ハオウの奴、しくじったか?」

 グーロの言葉を聞いた途端、構えを解き、いきなり考え込む

謎の男。

 どうにも薄気味悪く感じたグーロは、

男の正体を探るため、少しずつ近付いていく。

 しかし、あと少しで姿が見える、というところまで近づいた瞬間、

男が口を開く。

「……そこまで。それ以上近付いたら、殺さなければいけなくなる」

 その言葉を聞いた瞬間、グーロの背筋に嫌な汗が流れる。

 しかし、それを無視して、グーロは尋ねた。

「……何者だ?」

 その言葉に、顔を上げる男。

 先ほどとは違い、その視線に射抜かれたグーロは、

またしても自分の背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。

 それを見た男は、小さな笑い声を上げる。

 そして、少しだけ笑いを含んだ声で、名乗りを上げる。

「……ナゼだ。勇気ある青年よ」

 知らない名前だった。

 グーロは一時期裏の世界を渡り歩いていたが、

その時にはナゼという名前を聞いたことが無い。

 つまり、名が知れ渡らないほどの弱者か、

名を広める者がいなくなるほどの強者か。

 前者ならば良いのだが、今回は間違いなく後者だろう。

 それは即ち、このナゼと名乗る男が、自身のことを広める者を

全て屠ってきたという事であり、

名が広まれば自身の立場を危うくするほど裏の世界のさらに裏に

住んでいる者だということだ。

 そんな大物が何故エレクを狙っていたのかはグーロには分からない。

 そして、そんな大物を目の前にして、こんな行動をとることの

危険性も承知している。

 しかし、グーロにとって相手が誰であろうと関係ない。

 己の『大切な者』を傷つけようとしているという事さえ分かれば、

グーロに止まる理由など無いのだから。

 だからこそグーロは、

己の中に生まれた恐怖を振り払うように大きく深呼吸をし、

――大きな一歩を、踏み出した。

   ~~~

 エレクたちが闘っている戦場から

約十キロほど離れた上空を、傭兵団「ナイツロード」のヘリコプターが

旋回していた。

 そのヘリコプターの中にいるのは、二人の傭兵。

 一人はここまでヘリを操縦してきた傭兵団の中でも随一の

操縦技術を持った男、ユウキ・イシオカ。

 もう一人は、シルクのように艶めく白髪の少年、

レイド・アーヴァント。

 レイドは本来戦闘要員なのだが、今回は敵拠点のひとつであり、

強固なセキュリティブロックを施されているであろう研究所を、

ヘリの中から無線型のレイド専用スパコンを使ってハッキング、

セキュリティの解除を行い、以降は無線連絡機を使って降下した人員を

サポートする、というのが彼の仕事だった。

 しかし、彼は今その仕事を放棄していた。

 なぜなら、彼の仲間が危険にさらされているからである。

 先ほどまではサポートに徹していたレイドだったが、

エレクに渡した無線連絡機は故障し、

グーロの方からは今回の任務自体が罠だった事が分かった。

 そこまで分かれば、レイドに仕事を放棄し、

現場に駆けつけるための理由が出来たも同然だった。

 レイドは操縦席で同僚のラン・ヒロベとかいう女性の盗撮写真を

見つめながらニヤニヤしているユウキを一度見た後、

「行って来るよ」

 と声を掛けてから、一気にドアを開け放ち、

大空へとその身を投げ出した。

 その際に、ユウキの『ランランの写真がぁ!!』

という叫び声が聞こえてきたが、

どうせ風圧で写真が飛んでいったのだろう、と当たりをつけたレイドは、

即座にユウキのことを意識から追い出し、降下ポイントへ向かって、

   

 自身の足に取り付いたブースターを使って

   

降下していった。

   

 体が軽い。

 ルナを助けるために無理をした体だっていうのに、

全く痛みを感じない。

 『機人兵』の奴の拳も酷く遅く見えるし、

まるで自分のものじゃないみたいにすいすい体が動く。

 俺の体が一体どうなっているのかは分からないけど、

今だけはありがたい。

 この後俺の体が使い物にならなくなるとしても、

ルナを助けられたんだから。

 はあ、それにしても、今さっき思いついた謝るための方法も、

このザマじゃもう無理かもしれないな。

 まったく、どうしたもんかなぁ。

 ……まあ、とりあえずはコイツを倒すのが先だな。

 そう考えた俺は、妙に素早く動く体をフルに使って、

『機人兵』に唯一残っている攻撃手段である右腕の切断作業を続ける。

 刀が奴の頭に突き刺さっているせいで、

左腕を切り裂いた時のようには行かないけど、

これだけ体が動くんだ。難しいことじゃない。

 俺はさらに加速すると、幅広の剣に電撃を纏わせ、

赤熱化したその刃を右手首に突き刺した。

 そのまま、俺は”獣のように”『機人兵』の手首に突き刺した剣を

振り回す。

 一気に手首の部分についている肉が引き裂かれ、飛び散る。

 血の様なオイルを吹き出して、奴の右手首は千切れて落ちた。

 落ちてきた手首を踏み台にして、もう一段上へと飛んだ俺は、

奴の右腕に着地。

 剣を力任せに突き刺して、一気に駆け上がる。

 左腕と違い、刀を使っていないため剣の刺さりは浅く、肉の中まで

届いてはいないだろうけど、別にそれで構わない。

 奴の肩まで駆け上がった俺が振り返ると、右腕の

外皮は綺麗に切り裂かれ、どぎついピンク色をした筋肉が

露出していた。

 奴が身を震わせて俺を振り落とそうとするが、

剣を奴の右肩に突き刺し、耐える。

 地震のような振動を続けていた『機人兵』だったが、

しばらくすると体中のダクトから蒸気を吹き出して、

一瞬だけ、動きが止まった。

 その瞬間を見逃さず、俺は右掌から電撃を繰り出す。

 その電撃は、外皮が裂かれた事によって露出した

腕の筋肉を這うように進んでいく。

 そして、電撃が通った箇所はもれなく鮮やかなピンク色だった

のが嘘のように焼け焦げ、黒く炭化していく。

 肉が焼けたことによって漂うむせかえるような嫌な匂いと、

脂肪が空気中に飛散したせいでべとつく唇の不快感を押し殺して、

俺は『機人兵』の頭へと向き直る。

   

 その瞬間、一筋の光芒が俺の腹部を貫いた。

   

 血を吐く。一体何が起こったのかが解らなかった。

 レーザー? どこから? 誰が? 

頭の中でたくさんの疑問が浮かんでは消えていく。

 体から血が抜けて、足に力が入らなくなる。

 肺に血が入り込んだせいで、呼吸がうまくできない。

 脳に酸素が行き届かなくなったのか、考えがうまくまとまらない。

   

 何が起こった? なにがおこった。 ナニガオコッタ!

   

 分からない。解らない。ワカラナイ。

   

 何をしていた?

   

 分からない。解らない。ワカラナイ?

   

 いや、分かる。

   

 ルナを助けるために闘っていたんだ。

 きっと、目の前にいるコイツから。

 だったら、やることはもう決まってる。

 足が動かない。

 立てない。

 力が入らない。

 動けない。

 じゃあ勝てない? ルナを守れない?

 答えは、NOだ。

 俺には、力があるじゃないか。

 動けなくたって、闘うことができる力が。

 だったら、それを使うだけだ。

 力を解放しろ。

 己の枷をはずせ。

 自身の中の”獣”の部分を意識しろ。

 今なら分かる。

 さっきまでの力は、俺の中の”獣”の力だ。

 だから、俺の中の”獣”を呼び覚ませ。

 雄叫びを上げろ。目覚めのときが来た!

「あああああアあああああぁァぁぁアアァァァァアああぁア嗚呼ああ嗚呼ああああアアァアああああぁぁアああぁぁぁあぁ!!」

   

 ハナテ! ハナテ!! ハナテ!!!

 ヒッサツノイチゲキヲ! ナカマヲ、ルナヲマモルタメニ!!

   

「エレクトリック、バスタァァアアアアアアァァアアアアァァァァァアアアーーーーーーーーーーー!!!」

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   ~~~

 閃光が、空を、海を、大地を、白く染め上げた。

 エレクから放たれた極光、巨大な雷槌は『機人兵』を

飲み込み、肥大化する。

 それは、戦神であり、雷神でもあるトールの放った

一撃を彷彿とさせる形であり、威力は遠く及ばないものの、

『機人兵』程度なら、一瞬で消し飛ばす。

   

 はずだった。

   

 しかし、エレク自身の未熟さと、今まで蓄積したダメージのせいで、

完全な威力を発揮できず、

『機人兵』の下半身を吹き飛ばしただけに終わった。

 そして今、その頭部に取り付けられている砲塔は、

エレクと、それを庇うように両手を広げて仁王立ちをしている

ルナに向けられていた。

 もはや魔力はエレクの治療のために全て使い切ってしまっている。

 つまり、ルナには魔力でシールドを張る力も残っていない。

 それでも、ルナは逃げなかった。

 こんなにもぼろぼろになりながらも、自分のために戦ってくれた

エレクを見捨てていくような事は、ルナには出来なかった。

 しかし、いくらルナがこんな事をしたところで結果は変わらない。

 『機人兵』の放ったレーザーはルナ共々エレクを貫き、

死体が二つ出来上がるだけだ。

 そして、遂にその瞬間がやってきた。

 『機人兵』の砲塔が赤く煌き、次の瞬間に、

   

 天から落ちてきた槍によって、

『機人兵』は貫かれ、その機能を停止した。

 

   ~~~

 

 ――魔術院生物錬金学研究所。

 そう書かれた看板が提げられている研究所の最奥部にある

一室では、研究所らしからぬ爆音が聞こえてきていた。

 壁は無残にも崩れ落ち、機材は切り裂かれその内部コードを

露出させ、巨大なモニターはひび割れていて、

その一室にある物はどれも、二度と使い物にならないだろう。

 そんなあらゆるものが破壊された空間の中、

その原因となっている二つの影が、何度目かの接触を果たす。

 接触のたびにその余波で破壊の奔流が吹き荒れ、

研究室をさらに無残な姿に変えていく。

 その破壊の奔流の中心にいるのは、二人の男。

 一人は漆黒の忍装束をその身に纏い、闇に解けるように動く

この世の最暗部に生きる暗殺者――ナゼ。

 もう一人は瞳に自身の『大切なもの』を守るための信念を宿す、

漆黒の闇を纏った赤目の青年――グーロ。

 二人は、お互い一度も足を止めることなく、高速で移動、

一瞬の激突を繰り返していた。

 そんな中、グーロは舌打ちをして、己の手にある獲物

――自身の能力である亜空を操る力によって生み出した

一振りの大剣を見つめる。

 その大剣は無数にひび割れ、剣として使える代物ではなくなっていた。

 何らかの方法を使っているのか、はたまた奴の能力なのか。

 それとも、格好の通りに怪しげな術でも使っているのか。

 ナゼと名乗った男が使っている武器が一体何なのか分からないが、

少なくとも刀剣や戦斧といった、直接的な武器でないことは分かる。

 しかし、ナゼは無手でありながらも、

確実にグーロの振るう大剣の攻撃を受け、いなしている。

 何故だ? そう思って今まで何度か攻撃を仕掛け、

タネを見破ろうとしたのだが、グーロにはさっぱり分からなかった。

 そして、そんなこんなで攻めあぐねていた内に、いつの間にやら

己の獲物を破壊されていたのだ。

 それらの事柄を踏まえて、ナゼは何らかの方法で武器を隠している、

というのが、グーロの考え付いた結論だった。

 しかし、ここでさらに新たな問題が浮上する。

 それは、ナゼと打ち合った時に全く手ごたえが無い、

という物だった。

 いくら何らかの方法で武器自体に見えないよう細工を施したとしても、

打ち合えば、そこに武器がある以上は、

打ち合ったとき特有の感触があるはずなのだ。

 しかし、ナゼとの打ち合いにはそれが無い。

 そこまで考えて、グーロは行き詰っているのだった。

(タネさえ分かれば、いくらでも対応できるものをっ……!)

 グーロは悔しげに唇をかんで、その手にあった剣を投げ捨てた。

 そして、新たに自身の拳に亜空の力を纏わせ、手甲を作り上げる。

 手甲を纏った拳を後ろに引き、来るべき一撃に備える。

 しばらく高速移動による読みあいが続いたが、一瞬、ナゼの体勢が

崩れる。

 見れば、どうやら千切れたコードに足を取られたらしい。

 この好奇を逃す手は無いと、グーロは一気に加速した。

 この時、グーロは勝負を焦っていた。

 最初に合間見えた時に感じた不気味さが、

グーロから冷静な思考を奪っていたのだ。

 そしてそれが、最低最悪な結果に繋がる。

 ナゼに向かって振りぬいた拳がその顔面に当たる瞬間、

ナゼがグーロの視界から忽然と消え去る。

「!?」

 その瞬間、ナゼの真意に気付いたグーロは慌てて振り返るが、

もう既に遅かった。

「後七分だ」

 そのナゼの言葉に反応したグーロが裏拳を振るうが、

その拳は空を切り、そのまま振り回されるようにして倒れこんだ。

 グーロは、己のの体から力が抜けていくのを自覚した。

 力が抜けて、指を動かすのも難しいほどに衰弱した体に鞭を打って、

首をめぐらせたグーロは、驚きに目を見開く。

 グーロの視線の先、自身の生命活動を司る重要な器官から、

まるで噴水のように、

    

 鮮血が、吹き出していた。

   

 血が足りなくなり、

酷い倦怠感とともにそのまま動けなくなったグーロを、

ナゼはまるで虫を見るように見下ろしながら、先ほどと同じ言葉を呟いた。

「後七分だ」

 その言葉の意味を聞き返そうとしたグーロだったが、肺に血が溜まって、

声が出てこなかった。

 口から出てくるのは、グーロ自身の血液と、ごぼごぼという

血のあふれる音だけだ。

 グーロは、薄れていく意識の中、ナゼの言葉を聞いた。

「ナゼ、お前は負けたのか分かるか?」

 その言葉に、「……知るか」と返したグーロの意識は、

そこでぷっつりと途切れ、消失した。

 グーロの答えは、ナゼに届いてはいない。

 廃墟と化した研究室に、静寂が訪れた。

   

   

 ルナは、地面に降り立った人物を見て、一気に涙腺が緩むのを感じた。

 目の前にいるのは、自分が大好きな少年で。

 死にそうなところを、何度も助けてくれた少年で。

 ルナにとっては、王子様のような存在だった。

 そして今も、死にそうだった自分を――自分たちを救ってくれた。

 そんなヒーローのような少年の名を、ルナは叫ぶ。

 様々な思いを乗せて。

 この思いが、届くように。

   

   

 暗く、深い深い闇の中。

 そんなところに、先ほどまでは生きていた『モノ』は漂っていた。

 『モノ』は自分に何が起こったのかを認識していない。

 しかし、なんとなく、

自分が取り返しの付かない状態になったことだけは、

ぼんやりと思い出せた。

 何故、自分は取り返しの付かない状態になったのだろう?

   

 何故? 何故? 何故?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 ナゼ? ナゼ? ナゼ?

 ……ナゼ?

   

 何故? という単語が、浮かんでは消えていく。

 うすぼんやりとした意識の中で、

浮かんでは消えていくその単語を追いかけていると、

一筋の光と、ここ以上に暗い、底なしの闇にたどり着いた。

 先ほどまで生きていた『モノ』は、

その二つの内の、光に向かって漂っていく。

 そこには、倒れてはいるが息をしている、青白い髪の少年と、

透き通った白髪の少年。

 それから、白髪の少年に抱きついている一人の少女が見える。

 それを見た『モノ』は、安堵の気持ちを覚えた。

 何故なのかは分からない。

 自分はただの『モノ』に過ぎないのに。

 そんなことを考えながら、何故『モノ』が考える事ができるのだろう、

メビウスの輪のような疑問を浮かべた『モノ』は、

何とはなしに底なしの闇を覗いた。

 惨状が、広がっていた。

 そこに写っているのは、忍装束に身を包んだ男と、

斃れている『自分自身』。

 そこまで理解したところで、

『モノ』は己が何者なのかを思い出した。

 それと同時に、己のするべきことも思い出す。

 『モノ』の名はグーロ・ヴィリヴァス。

 闇と亜空の力を操る、誰よりも不器用な、誰よりも優しい漢である。

   

   

 ナゼは焦っていた。

 ナゼ自身、青年を殺すことにここまで時間がかかるとは

微塵も思っていなかったため、

このままでは、『ある事』の時間に間に合わないかもしれないのだった。

 となると、エレク・ペアルトスの殺害という

依頼をこなすことが出来ない。

 依頼人は個人的な知り合いだし、失敗しても構わないと言っていたが、

依頼を失敗させるというのは、

ナゼの暗殺者としてのプライドが許さなかった。

 しかし、このままでは『ある事』に間に合わない。

 『ある事』と自身のプライドを天秤にかけた結果、

どちらも成功させたいナゼにとって、皿がどちらかに傾くには後一手

足りなかった。

 そんなナゼの腕時計が、

   

『お兄ちゃん、時間だよ♪』

   

 という合成音を響かせる。

 その瞬間、ナゼの天秤は傾いた。

 『ある事』――すなわち、妹モノの萌えアニメの視聴である。

 今すぐ見る帰って見る仕事なんてどうでもいい! と息巻いていた

ナゼの聴覚に、嫌な音が聞こえてきた。

 まるで、人が立ち上がるような、そんな音である。

 そして、振り返ったナゼの視線の先には、己の血をその身に纏った、

先ほど確かに殺したはずの青年が立ち上がっていた。

   

   

 グーロは、断絶しそうな意識を何とか繋ぎ止め、

ナゼを睨み付ける。

 ナゼは何故か焦ったようにこちらを振り返った後、

グーロにとって、予想外な言葉を叫んだ。

   

「これから”魔法幼女リリカルなのたん”を見るから、

今日は見逃してやる! さらば!」

   

「……は?」

 そう言って、溶けるように消えていったナゼに対して、

グーロは呆けた様な言葉を返すことしか出来なかった。

 またもや、グーロの言葉がナゼに届くことは無い。